波穏やかな伊万里湾、国見連山を望む風光明媚な景勝にある本光寺の里は、古くは鍋島水軍の港でもありました。お船屋に往来した旅人のなかには寺に寄宿した文人墨客もいてその書も残されています。明治からはお船方が廃されると行き交う人もめっきり少なくなり、俳人山頭火が門前で句を詠むのどかなお寺となりました。現在は、伊万里湾を跨ぐ九州最大のアーチ橋をバックに季節の花が咲きみだれ、境内はお詣りの絶えない霊園墓地「石仏の杜」、香煙くゆる永代供養廟「圓寂堂」がみどりにつつまれています。太明山本光寺は、つねにほとけさまのおはなしやきよらかな詠讃歌が流れて、寺院と檀家・生者と亡者・そして人々の安らぎと華やぎにつつまれた、まどかな心にみたされる精舎でありたいとねがっています。

 

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楠久の丘にあった五ヶ寺が統合されて、元和二年(1616)曹洞宗の寺院となりました。本尊は無量寿光如来(阿弥陀佛)現在の本堂は天保二年に火災に遭い、同七年に福島の松浦家下屋敷を解体して建てられてから、その後数次の改修に耐えて今日にいたっています。

 

「方丈」とも呼び、住職の居住建物で現在18代を数えます。明治四年までは鍋島藩御船方のお休み処として本陣につぐ役割を果たしていました。

 

平成10年5月8日、仏教の理想郷である「圓寂平等」のふるさととして建てられた永代廟です。堂内にはご開山不鉄桂文禅師を中心に開基小城初代藩主元茂公や暦住和尚、塔頂には釈尊の御真骨、回廊には印度八大聖地の霊石、香炉には伝教大師ゆかりの妙灰が奉安されています。すでに室町時代から現代までのすぐれたご縁にみちびかれてご一緒されているおかたは五百余名になります。

 

もともとはお檀家各一門の位牌所であったものが、現在は御骨もおさめられる納骨堂の役目を担っている建物で、第1第2の二つの霊安堂があります。

 

キリシタン禁教令が厳しくなるにしたがい観音様への信仰がたかまったと言われれます。楠久観音堂は寛永5年、長崎から渡来の聖観音さまで楠久津、福川内とともに當寺境内にもまつられ、三所観音としてムラぐるみでまもられてきました。小城藩の肩入れもあったようで享保の大飢饉にはお粥場として救難にあたりました。

 

當山はもともと中世の城跡です。戦死したかたがたを弔ってか、六地蔵さんがいたるところにあり、天正14年の銘が見えるものもあります。

 

 

子どもたちを大きく大きく育てられるお地蔵さまの本願のお声を聞いた現住職が昭和57年1月24日に建立したもので、毎月24日に縁日法要がつとめられています。

 

 

その昔、唐の国との商いをしていた若者が海で助けたやさしい娘を妻にします。やがて赤ん坊が生まれてしあわせに暮らしていました。若者が商いに夢中になっているあいだに子どもをのこしたまま妻がいなくなります。火がついたようになく子どもにせかされて方々をさがしましたがみつかりません。川をのぼりつめ、思いあまって身投げをしようとする若者をとどめたのは最愛の妻でした。「私はみずち(蛇)です。あなたのやさしい愛情におぼれて夫婦となりましたが、いつ本性があらわれるか気がかりで、子どもには私の目玉をお乳がわりにあげてきました。あとの残りを今さしあげます。これで両の目玉がなくなり、世が明けたことも、暮れることも、あなたと過ごした家を眺めることもできません。あなたは財力のある方ですから、鐘楼堂を寄進して朝な夕なにその時を知らせて下さい。」といったまま沢の中へ消えてゆきました。若者が寄進した初代の鐘は宝暦の落雷で改鋳され、二代めは戦争に供出され、現在のものは昭和25年につくられた三代めにあたります。

 

昭和七年に當山の門前宿で句境を深めていますがその中の一句「何やら咲いている春のかたすみに」が碑となっています。山頭火ふるさと会の富永鳩山氏の破幕によるものです。この碑を撫でさすると男性の威勢を増すといわれ、隠れた信仰になっています。

 

當寺二世隣翁和尚代に建てられた供養塔です。口減らしのためにお寺へあづけられ、こころざしなかばで逝かれたかたがたをおまつりするための無法塔でした。現在は亡僧墓が設けられていてこれは当時をしのぶだけの碑です。

 

目蓮尊者のご真骨を分祀する舎利塔です。幼少の目蓮尊者を溺愛されたお母さんが地獄に堕ちて苦しまれているところを救済されたという盂蘭盆経の話は有名です。釈尊十大弟子のひとりです。平成七年十月五日、ミャンマー連邦仏教最高会議一行60名が来寺されたおりにウウッタラ大僧正とウイエンダカ大僧正によってもたらされました。

 

藩政時代の国境は重要な意味を持っていました。長谷川伊衛門厨はみずから足をはこび問題解決にあたっています。間道で亡くなった妊婦のために観音さまを造像したり、いつも絶えなかった川漁場の境界線解決に尽力された逸話が残っています。

 

本光寺を開かれた初代のご開山です。不鉄禅師は、鍋島藩祖直茂公の顧問役として外交・教育・治安などにわたり万般の法制化を指導し、精神的な支柱となって貢献されました。鍋島家の菩提寺である高伝寺七世・宗智寺のご開山でもあります。

 

幼少の頃より文武の才がすぐれて、三代将軍家光公のお小姓頭をつとめられました。江戸で亡くなられ楠久に上陸されたご遺体は葬儀がつとめられるまでのおよそ半月ばかりを當山で逗留され、通夜が修行されました。小城初代藩主、祥光院殿月堂善珊大居士、享年五十三才。

 

明治のはじめ頃、神仏分離令が発布されて天皇の神格化が強められるとともに、地位の向上をはかった一部の神職たちに煽動された廃仏毀釈運動がおこります。長く公然とは行なわれなかったために當寺での被害は少なく、仏式のお墓が神道式の盛土に変えられました。今はその名残もなく当時捨てられた石仏像や五輪塔が墓地整備のおりにあつめられ、塚としてまつられています。

 

海の参勤交替を指揮した鍋島水軍上級官僚のお墓です。電気や石油のない時代に海の交通機関を縦横にあやつる知識や技術は今日では及びもつかないほど重要な任務で、その適正な頭脳と技術を遂行した人たちでした。

 

目を患うとお詣りすれば治るとされているお墓です。眼科のお医者さんだったのかどうかはわかりませんが、ご先祖さまがカミさまとしてまつられている例のひとつです。

 

 

美しい三人むすめのいる屋敷に京の都から下向された貴公子が逗留されました。そのなかのひとりと恋に落ちますが、やがて貴公子は去り実らぬ恋は終わります。むすめは、宿した子どもを誰にも告げぬまま亡くなってしまいました。死して後は飴を求めて乳のかわりとしました。泣き声を聞きつけて墓を掘りおこすとむすめの手に抱かれた元気な赤ん坊が姿をあらわします。この赤ん坊はやがてせいちょうし、京の都へ上られ父君の手助けをされたとも、本光寺の二祖さまとして母上を弔われた隣翁和尚その人とも言われます。

 

辞世の頌を彫って墓碑とした珍しいお墓です。表には「脊令碑」とし、碑文には「逝者水如、五十春秋、山青海碧、魂吁茲留」と記されています。

 

おめでたい席には「祭文(さいもん)かたり」とよぶ人たちが即興で名調子を披露しました。浪曲の元祖です。三島嘉造は独特の節回しで人気者でした。多くの門弟を育て全国に散り「うかれ節」がはやります。門弟たちは師を慕って元祖とあおぎました。

 

どのような目的で建てられたものかわいい石のほとけさまです。いつのものかかは不明ですが、かなり古い年代を感じさせ、写真愛好者のモデルになられています。

 

もとは参道ののぼり辻にあり、厄払いの「サヤンカミさん」として親しまれましたが、このごろでは夫婦円満の絆が強まるということで根強い信仰があります。夫婦像の板碑で、室町後期から江戸初期のものとされています。
 

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